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君の目の群青

 唐突に、手を握られた。  その手は馴染みのものよりも少しだけ大きくて、細い。おまけに冷たくて、可哀想なくらいに震えているので、それが私の悪い癖であると知りながら振り払うことができない。 「ふっ......くっ」  ぼろぼろと、牛乳瓶の蓋のような眼鏡のレンズ越しに彼の瞳から涙がこぼれて落ちるのを、黙ってみていた。男の人は少し苦手。ましてや手を繋ぐなんて(いまは繋ぐというよりも掴まれていると表現するのが適切であるように思えるけれど)到底無理だと思っていたのに、不思議とそう感じないのは、彼が私のことをカケラも愛していないと、下心を微塵も抱いていないと知っているからだ。 「きれい」  気づいたら、口に出していた。  授業中の校舎裏はとても静かで、そよぐ春風が心地良い。授業をサボったことなど一度もなかったはずの私が、ムースと一緒に校舎裏のベンチに並んでいる理由を一言で説明するのは難しい。けれど私はお節介な性格柄、彼を一人置き去りにして教室に戻ることはできなかったし、彼の涙の元凶となっている彼の幼馴染と私の許嫁(そしてひょんな事から巻き込まれている何人か)が追いかけっこでもするみたいに広い校内のあちらこちらを走り回っていること、彼らに意味もなく巻き込まれていることにもいい加減苛立ちを覚えていた。だから思い切って彼のそばにいることにしたのだ。ひどく何かに腹が立っているとき、私は人に優しくしたくなる。  ムースが驚いてこちらを振り向いた。その瞳が戸惑いに見開かれたのを見た。 「なに、を」 「きれいね、ムースって」  組んだ脚の上で頬づえをつき、私はこの美しい男の子をじっと見つめた。彼は自分が私の手を無意識に掴んでしまっていることになど気づいていないようだった。私のほうはそれで一向に構わない。涙をこらえるために、ほとんど反射的にそばにあるものを握りしめた。それがたまたま私の手だっただけなのだ。けれどその潔さを、私はとても気に入った。 「男の人がこんなにきれいに泣くなんて、知らなかったわ」  ムースが息を飲むのがわかった。怪訝な眼差しを無遠慮に向けられ、私は思わず苦笑を漏らす。 「別に、からかってないわよ。馬鹿にしてもいない。だからそんなに睨まないで」  慰めようというつもりはなく、だから私の言葉には気にかけるような優しさが微塵も込められていなかった。それでもムースは、私の言葉にまたボロボロと涙をこぼした。きれいな、大粒の涙。 「おらには、シャンプーしかいないだ。こんなに......愛してるのに」  うんうんと、適当な相槌を挟みながら促した。涙ぐんだ声が震えながらもぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。なぜだろう。ムースが泣いているのをみると心が落ち着いた。泣いてほしいと思っているわけではないのに、潔くこぼれる彼の涙が私を慰めるのだ。おまけにその泣き顔があまりにきれいだから目が離せない。 「なんでシャンプーは......」  うんうん。ひどい話よねぇ。私は平然と言葉を紡ぐ。ひどいだなんてこれっぽっちも思っていないのに。  可哀想なムース。可哀想なシャンプー。いつもシャンプーを追いかけて、けれど当のシャンプーは乱馬が好きだ。シャンプーはきっと知らないだろう。ムースがこんなにも美しく泣くこと。彼の手がこんなにも冷たいこと。彼が感情の赴くままに私の手を握れば、私の指の骨の何本かなど簡単に折れてしまうだろうに、ムースが私の手を握る力は無意識に加減されている。優しい人なのだ。優しくて可哀想な人。 「おまえは、なにも思わんのか」 「え?」  そんなこんなで油断していたら、突然思わぬ反撃を食らった。 「......シャンプーと乱馬が、口づけしていたんだぞ」 「ふふ、そうね」  ふわりと、先ほどの光景が、鮮明に脳裏に映し出される。  シャンプーが、あのまっすぐなエネルギーに乱馬への好意をそのままに乗せてぶつけてくることは日常茶飯事で、それはシャンプーに限ったことではない。私の周りの女の子たちは、なぜあんなにも素直な子ばかりなのだろう。おまけに顔立ちも整っていて、スタイルも良くて、器用で、女の子らしくて甘え上手。私の持っていないものだらけ。  私は、たぶん本当ならば嫉妬深くて、独占欲だって強くて、そのくせい自己分析が下手だし素直に気持ちを伝えることが不得手だ。そのくせに狡いから、その理由を平然と「彼への好意不足」という額面を貼り付けることによって誤魔化している。努力もせずに、無いものを嘆いて高みの見物を決め込んでいる。だからこうして、ときどき眩しいくらいのまっすぐさに打ちのめされて、痛い目をみる。  二人の唇が重なるところを、見せつけられてしまった。壁に追い込まれた乱馬の逃げ道をシャンプーの細腕が阻んでいた。遅れて駆けつけた私たちに気づいた乱馬が何かを言いかけ、それを、シャンプーの柔らかそうな唇が塞いだのだった。 「早乙女乱馬はおぬしの許嫁じゃろ。あやつのことが好きなのではないのか?」  好きだ。私は私なりに、彼のことが。 「じゃあなんで、そんなに平然としていられるんじゃ?」  うーん、とわざとらしく唸ってみせて、けれどその言葉にうまく続けることができなかった。なぜ平然としていられるのかなんて、私にだってわからない。そもそも私は、平然としているのだろうか。 「キスがどんなものか、私がよく知らないからじゃないかしら」  だから明るい口調で取り繕って、けれどあんまりにも虚しく響くものだから、悔しいあまりにムースに掴まれていた手を、彼の手の中から抜いて逆に掴んでやる。ぎゅうぎゅうと、こんどは一方的に握りしめた。 ムースがひどく奇妙な表情を浮かべて私を見た。何か言葉を紡ごうと口を開き、閉じて、また開いて、半開きになったムースの唇の隙間から、白く清潔そうな歯がちらちらと見え隠れした。 「それに、乱馬のああいうのはいまに始まったことじゃないでしょう?」  驚くのかと思っていた。白状してしまうと、少しくらい困ればいいと思った。シャンプー以外はどうでもいいと思っている彼が、どうでもいいと思っているはずの女の手を握り、握り返されていることに。嫌悪でも困惑でも、なんでもよかった。  大人しく泣いていればよかったのに。そうすれば私も、ムースの涙の中に、私一人では消化できない色々なガラクタを一緒に流せたのに。普段は目を逸らして触れないようにしていた、くすぶっていたものが暴かれてしまいそうで、私の指は必死に彼の手に爪を立てるのに、ムースは少しも痛がるそぶりをみせなかった。痛いと、叫んで振り払ってくれれば救われたのに、それどころか相変わらずの涙声で、まるで哀れむみたいに言った。 「おぬしは、面倒臭い女じゃな」 「え?」 「そして少し、気の毒じゃ」  動揺させられたのはこちらだった。そこに悪意の一切が感じられないことが殊更に厄介で、私は呆然とムースを見つめた。  思わず離そうとした手が、今度はムースによって再び捕まった。相変わらず私の手を掴むムースの力は、ひどく優しい。優しくて大きな手が、私の手を包む。 「な、に」  掠れ掠れに、やっとのことで言葉を紡いだ。ムースの手の甲には私の爪の跡が、痛々しく残っていた。皮膚が切れて、血が薄っすらと滲んでいる。 「おぬしが涙を流せんのは、口づけを知らんせいではない」 そしてそれは、唐突に起きた。  突然、ムースが空いたほうの手を、私の唇にあてがったのだった。そっと柔らかく、骨ばった彼の手の甲が私の唇に触れた。 驚きに目を見開いた。されるがまま、少しも動くことができなかった。 キスとは程遠いはずのその行為が、唇同士を重ねて行うそれ以上に、ひどく背徳的なもののように思えた。ぞくりと、奇妙な感覚が背筋を駆け上がり、それなのに顔を逸らすことができない。 「おぬしが涙を流せんのは、おぬしが、自分に厳しすぎるせいじゃ」  違うわ。そうじゃない。私はあんたが思っているような、そんなに綺麗な人間ではない。  そう否定したかったのに、私の唇から手の甲を話したムースがいまにも泣き出しそうな顔で笑うから、それ以上なにも続けられなくなった。  私は臆病だ。ずる賢くて、いつも与えられるものに無遠慮だ。そのくせ与えることがひどく怖い。枯れてしまうことが嫌なのではなく、差し出した手を拒絶されることがたまらなく怖いのだ。そんなの誰だって一緒だろうと言われれば当然そうで、だから私が弱いことは誰のせいでもなく、私自身の問題なのだ。  自分に厳しいのではない。保身ばかりを大切にする私が、まっすぐに傷つく強さを持つ彼らと、対等に肩を並べようとするなんてあまりに申し訳なくて、ついでに情けなくて惨めだから一線引いているだけなのだ。 「言っておくが、傍観者でいるのはもう無理じゃぞ」 「......なんでよ?」  あぁ、ムースのせいで、私の声まで不本意な涙で震える。 「私にだって、私のペースで恋をする自由くらいあるでしょう?」  ムースが困ったように笑った。笑った拍子にまた、ムースの大きな瞳から涙が、あるで悲しみの余韻を引き延ばすようにこぼれた。 「......そんなこと、おらが言わなくともおぬしが一番よく理解しているじゃろう」  優しいのか意地悪なのかわからないムースをじっと見つめる。相変わらず、彼の目の際には流れきらなかった涙の残りが未練たらしく溜まっている。  遠くから、私の名前を叫ぶ乱馬の声が聞こえた。ムースの手が、私を慰める彼の手が、ゆっくりと離れる。  諦めにも似た表情が、その端正な顔立ちの中に浮かんでいた。そんなに辛いのならば一層のことやめてしまえばいいのにと言いかけて、ムースがそんなことを少しも望んでいないことがわかるから、結局気の利いた言葉を彼に届けることはできない。届けるつもりがあったのかと問われれば、結局は笑うしかできないので、つまるところ、今日の私はまるで与えられるばかりだったのだと気づいた。 「あなたの、その瞳に宇宙をみるわ」  それが最たる収穫である。  群青。この距離でなければ気付けなかった、美しいムースの虹彩。  彼のそれは、まるでーーーーーーーー。 **  猫の恩返しならぬ、と考えて、この女が猫のように可愛らしい器に収まる気概ではないなと思うとなんだか笑えた。  猫は自分の想い人のほうで、では一体なんなのかと、問われたところでそれ以上考えるつもりだってない。そんなくだらないことを考えるくらいならば想い人である幼馴染をデートに誘う方法にでも費やしたほうがよっぽど健全で真っ当だからだ。 「言っておくけど、私だって打算でここに来てるわけじゃないわ。下心がないってわけでもないけど」  知っている。打算ならば猫飯店になど来ず、町にでも出ればいいのだ。この女の(自分の好みではないが)容姿を以ってすればおそらくは彼女の許婚の心をぐらつかせることことなど、湯を沸かすより容易いだろう。くだらない男ならば、彼女が首を傾けるだけで心根を簡単に差し出してしまうことは容易に想像がつく。  それを実行しない(嫌悪しているのか、あるいは不器用さゆえに実行できない)この天道あかねという女のことを、自分は決して疎んではないし(早乙女乱馬が幸福になるのは癪だが)幸せになればいいくらいには思ってやれる。  あの日から、天道あかねはよくこの猫飯店にやってくる。 「腕は確かなのよね。ここのご飯、本当においしい」  ラーメンのどんぶりを持ち上げて、実にうまそうにすするので思わず笑ってしまう。笑ってしまってから、早乙女乱馬の殺気立った視線と、幼馴染の無機質な視線を後頭部に受けて複雑な想いに駆られる自分の心中に、はたして天道あかねは気づいているのだろうか。 「......気づいてるじゃろ、おぬしは」 「ん?」  とぼけた顔で、けれどいたずらに満ちた顔で、天道あかねは微笑んだ。「なにが?」と首をかしげてみせたが、その語尾に笑いが含まれているのを、本人は露ほども隠そうとしない。 「シャンプーの前で、あまり誤解されるようなことはしたくないんじゃが......」 「誤解って、大袈裟ね。ちょっと話してるだけじゃない」  長い髪をリボンでくくり、彼女のその細い体のどこに食べ物が消えているのかと不思議に思って彼女を見つめる。そんなものは、例えば道端の花を見てその花を以前も見かけたことはなかったかと思い返してみたり、スーパーで色鮮やかな果物や新鮮な魚を見てメニューの献立を想像したりするようなもので、意味もなければ意図もない。意図もないのにどういうわけだか、視線が痛いのである。早乙女乱馬だけならばまだしも、シャンプーに至っては怒ってくれているのか喜んでいるのか(後者は自分にとってあまりに悲しいが)ちっとも分からない。大袈裟どころか、こちらは動きにくいといったらないのである。シャンプーの悲しむことは絶対にしたくないというこの信条だけは決して曲げたくないのだけれど、本人の心情が今回に限っては、あまりに分かり難いのだ。 「おぬしのその下心とやらに、おらを巻き込むのはやめてくれんかのう」  ため息混じりに愚痴た。  天道あかねと話すことをもしもシャンプーが嫌がるのであれば、この縁さえ切ってもいい。どうせ自分とこの女の間には、関係と呼べるとほどの繋がりもないのだから。けれど、いまも早乙女乱馬の首に腕を絡めて体を寄せる彼女が、自分と天道あかねの関係に心を動かされるなんてことが果たしてあるのだろうか。 「傍観者でいるのは無理だって、教えてくれたのはムースでしょう」 「おぬしはここでラーメンを啜っているだけじゃろう」 「心外ね」  言葉とは裏腹に、天道あかねがメニューをひょいとつまみ上げた。まだ食べるつもりだろうか。怪しがる自分の視線を、けれども天道あかねは容易に受け流す。 「どうせ見せつけられるなら、おいしいものでも食べながらのほうがずっとマシだもん」  アンタもいるし、とついでみたいに付け足された。  どんな立ち直り方じゃ、と言いかけて、それが彼女らしいと思い直して声には出さなかった。少なくとも、学校のベンチで、自信なさげに俯いているよりもずっと彼女らしい。元来が気概の強い女なのだ。シャンプーが手を焼くわけで、やられたらそれ相応にやり返すぶんタチが悪いけれど、どういうわけか憎めない。 「......おぬしにはかなわん」 「餃子、追加ね」  ため息混じりにシャンプーへ注文を告げると、案の定ふいと顔を逸らされた。ここ最近、まったくもってこの調子なのだ。「うるさい」「いまは忙しい」とあしらってくれたら、いっそどれほど楽だろう。謝っても、泣いてすがっても目を合わせようとしてくれないのはこれが初めてだった。  期待して救われた試しはない。試しはないけれど、たとえ何度期待に裏切られても彼女に焦がれてしまう。その気持ち一つで故郷も捨てて、ここまで、自分でも呆れるくらいにしつこくやってこられた。けれどもしもシャンプーが自分と目を合わせてくれない理由が、彼女が自分に嫌悪を抱いているが故にであったなら、自分はいよいよどうすればいいのだろうか。シャンプーのことを愛しているから、彼女の嫌がることは、傷つけることはしないというこの信条に、自分の気持ちが反してしまうようなことがあったら。 「ムース?」  心配そうに、天道あかねが自分の顔を覗き込んだ。  きっといま、自分は相当に酷い顔をしているのだろう。けれど好きでいることが彼女の苦痛になるのであれば、することの最善は一つしかない。それはどれだけ苦しいことだろうか。 「天道、あかね......」 思わずその真意を天道あかねに確かめようとしたそのときたった。 ぐいっと肩を引かれた。馴染みのない、細い指で、強く。 「ムース」 怒るでも呆れるでもない、落ち着いた声だった。 「え?シャ、シャン......」 「餃子ダロ。早くするネ。私このあと乱馬とデート、忙しい」 そのまま袖を掴まれ、呆気にとられた表情を浮かべる天道あかねを尻目に調理場に引きずられる。そうしてヒールを好まない彼女の、バレイシューズがスタスタと床を蹴る音、それに伴い揺れる透き通るような青い髪から、甘い香りが漂った。 餃子?あぁ、天道あかねが注文して、自分がシャンプーに告げたのだ。あれ、けれどいつもはどうしていただろうと、引きずられる体に遅れて少しずつ頭が回転し始める。料理を作るのは彼女の祖母とシャンプーの仕事で、半人前の自分に与えられた役目は配膳で、ではなぜ用無しの自分がシャンプーに腕を引かれているのか。  そこまで考えて、思わず顔が熱くなった。 あぁ、また期待してしまう。相手が彼女ならさらに、募ってしまう。そんなものがいままで実を結んだことは一度だってないのに、彼女から与えられるものならば、たとえ一雫さえ逃したくないのだ。 だから調理場に入る寸前のところで、袖を掴む彼女の腕をひいた。殴られることも罵倒されることも覚悟の上で、けれどそれ以上にシャンプーの顔が、たまらなく見たかった。自分を、見てほしかった。 「シャンプー」 そうして振り返った彼女を前にしたら、全てのことが一瞬にして、まるでどうでもよくなってしまった。 「......好きじゃ、シャンプー」 気づけば口走っていた。 「おらはシャンプーのことが、たまらなく好きなんじゃ!」 もう繋がらなくてもいい。自分のためにそんな表情を見せてくれるのならば、それだけで十分だ。 彼女を愛することが結局のところ自分の全てで、これからもその根幹は、絶対に揺らぐことはない。 「......そんなこと、知ってるアル」 ばつが悪そうに顔を背けた彼女はそそくさと調理場に入り、次の瞬間には手慣れた様子で料理を作り始めた。いつも通りの凛とした表情を浮かべて。 「ムース、オマエいつまで突っ立ってるアルか!早く手伝うヨロシ!これが終わったら私乱馬とデートね!」 そんな彼女の怒声までもがいまの自分には愛おしい。振り向きざまに彼女が浮かべていたあの表情を、自分は未来永劫、決して忘れないだろう。 「これを食べたらいい加減帰るだ、天道あかね」 天道あかねの前に焼きたての餃子を差し出すと、彼女は悪びれる素振りも見せず、頬を綻ばせて食べ始めた。いつのまにか彼女の向かいの席には、ぶっきらぼうな態度で頬づえをつく早乙女乱馬の姿があり、けれどシャンプーの姿が見当たらない。 「シャンプーなら出前行ったぜ」 「出前?」 「あぁ。厨房から出てくるなり」 そうして天道あかねの餃子に箸を伸ばそうとして窘められている早乙女乱馬をよそに、出前なんてあっただろうかと記憶を巡らせると、突如天道あかねに代金を手渡された。 「な、なんじゃ......?」 「おいしいわ、これ。すごくおいしい」 あぁそうだ、出前なんてそんなもの、今日はなかった。そう結論に達するのと、意地悪そうに微笑む天道あかねと目が合ったのはほとんど同時だった。 「食べ終わったら適当に帰るから」 「......恩にきるだ」 気づけばエプロンを脱ぎ捨てて走り出していた。追い付けるだろうかと考えることはやめた。考えたって仕方がない。いつだって自分は、ただ彼女を追いかけてきたのだから。 「どうしよう、餃子、お腹一杯で全然入らないわ」 「はぁ?じゃあなんで注文したんだよ」  ずっと後ろのほうで、あの2人の間の抜けた会話が聞こえたような気がした。

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