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二つ先で待ってて

 背中におずおずと手を回すと、なぜだかひどく泣きたい気持ちになった。 嬉しかったのに、居た堪れないだなんて矛盾している。それはたぶん、仁王をひどく困らせてしまうだろう。 それが分かっているのに、ざわつく気持ちが一向に収まらないので、代わりに仁王の背のシャツを力一杯握りしめた。 皺になると悪態をつかれたら、綺麗に洗って隅々までアイロンをかけてやるよと言い訳まで考えて用意したのに、子供みたいに必死にしがみ付いた丸井の頭を、 仁王はポンポンと黙って撫でるだけだった。 「おまえさ、のびたな、髪」 「ん」 「さらさらしてる」 自分の、多少うねった癖っ毛とは違って、仁王の束ねられた髪はさらりと手をこぼれる。抱き合いながら髪を撫でるなんてとも思ったけれど、 誰もいない部室の片隅で今さら慌てることもない。そう、2人きりだ。それまでだって2人きりはあったけれど、それまでとはおおよそニュアンスの違う“2人 きり”。 ひどく落ち付かないけれど、居心地が悪いわけではない。それならなぜ、そんな風に怯えた様子で仁王の肩に顔をうずめているのかと問われれば、 それは処理しきれない自分の内側に浮遊する未消化な部分を彼に解釈されるのが怖いからだ。そういうものは、理屈でどうこうできるものではない。 少なくともそんな客観性を自分が持ち合わせていないことくらい理解していた。 震える腕を誤魔化すために入れた力は、仁王のかっちりとしたワイシャツに皺を刻んでいく。今後負わなければならないリスクを前に、 どうしたって恐怖を感じずにはいられなかった。人の目や押しつけられる先入観よりも、怖いのは仁王の中に生じてしまうかもしれない可能性の破片。 その破片がいつか、自分の心臓を喰い破るほどに鋭利になってしまうことを考えれば、たちまち脚がすくんでしまう。情けない話ではあるけれど、 だってテニスとは違って、どんな努力だってぶつけることはできないんだから仕方ないじゃないか。 「何を考えておるんじゃ」 「んー」 「のう、丸井」 呼ばれて、額を押し付ける力が勝手に強まった。悟られるのがこんなに恐ろしいことだとは。これが彼のスタイルであることは重々承知しているけれど、 こんなにも厄介なものはない。傷つけられるのは怖いけれど、傷つけることだって同じくらい丸井には恐ろしいことなのだ。 「別に、」と仁王が苦笑した。変わらず子供をあやすみたいに、大きな手が優しく丸井を撫でる。「別に、取って喰おうなんて思っとらん。ただ、顔が見たいだ けじゃ」 あぁ、卑怯だ。そんな風に言われたら顔を上げるしかないじゃないか。自分はいま、とんでもなく情けない、ひどい面をしているに決まっている。 だから今度は、顔を上げる代わりに、腕を掴んで爪を立ててやった。ピクリとも表情を変えないコイツが腹立たしいのに、困った。 自分はコイツのことがたまらなく好きなのだ。ああ、仁王だ。照れ隠しも相まって久しぶりに拝んだ彼の表情は、いつになく強張っている。 ペテン師なんて呼ばれているくせに、ときどき垣間見せる不器用にいつしか惹かれてしまったことを、いまごろになって思い出す。 「ひでぇ顔」 「丸井には言われたくない」 「あぁ」 苦笑すると今度は大きな力で抱擁された。あぁ、余裕のない仁王はこんな風にして自分に甘えるのだ。飄々としているくせに。 「丸井」 「ん」 「……俺を、置いていかんで」 そんなの。置いていかれることを恐れているのは丸井の方なのに。そんな言い方はずるい。肯定しか求めない懇願なんて。 それでもしがみ付かれることに悪い気はしないのだから、自分は重症だ。 2、3歩先を歩かれるのを、たぶん恐れていたのだ。置いていかれたら、ましてやもしもその際に転倒でもしたら、起き上がることなんか出来なくなってしまう のだから。 でもこんな仁王ならば、手を引いてやってもいい。もしも距離が開いてしまったならば、待てばいいのだ。追いかけることばかりに捉われていて、 それが間違っているとは思わないけれど、彼との距離の隙間を埋め立てていけるのだとしたら、もう一つの可能性を温めるのは、 案外素敵なことなのかもしれないと丸井は思った。

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