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その愛は差し出し先不明につき

 熱っぽい眼差し、心のこもった言葉、それなのに私は、彼の頬が私に紅潮するところだけを見たことがない。 「好きだ、天道あかね!」  彼にさらけ出すみたいに告白されるとき、私たちの周りには必ず”目撃者”がいる。それは教員だったり、生徒だったり、友人だったりと様々で、彼らのうちの誰かがどんな思惑でか先輩の告白を曖昧に打ち消す。私はいつも、抱えきれないほどの言葉を受け取り、けれど決して、返事を返すことができるタイミングを持たない。 『天道あかねさーん、九能先輩から”愛の告白”のお届けものでーす』  こんな感じ。 ** 「好きだ、天道あかね!」  その日、すっかり油断していた私は隙をつかれて九能先輩に抱きしめられた。胸板の厚さ、道具に染み込んだ汗のにおい、がっちりとした腕の感触、私よりもはるかに高い身長。彼は剣道部の主将で、風林館高校の剣道部の主将というのはこの辺りでは腕の立つことで名が知られている。だから私は思い切り抵抗しようとして、彼の肩を力いっぱいに押しのけた。九能先輩の体は、あっけないくらいに容易く、私から離れた。目があった。九能先輩の瞳は確かに熱っぽく私に向けられていて、けれど先輩は、ひどく穏やかに微笑んでいた。え?という違和感の意味を考える暇もなく、彼はこのあとすぐに乱馬に蹴り飛ばされて天上の星となる。 「おのれ、早乙女乱馬、天道あかねと僕の中を引き裂こうとしおってえええ」  声はゆっくりと遠のき、乱馬が焦ったように私の肩を掴んだ。 「大丈夫か、あかね?」  私の身を案じる乱馬に手を引かれ、引かれながら振り返ると、そこに九能先輩の姿はない。周囲が「九能のやつもよくやるよなあ」と感心するような呆れるような声で話している。けれど九能先輩の姿は、もう、そこにはない。人々の言葉の中にあるだけなのだ。 **  土曜日の正午。雪はすっかり溶け、桜が枝の先に蕾をつけ始めた。もうすぐ私たちは3年生になる。  昼ご飯は素麺だった。温かい汁の中を泳ぐ不味い素麺の残骸を啜っていると、季節外れの廊下の風鈴がちりんちりんと音を奏でた。  私はなぜだか、九能先輩を思い出した。九能先輩はもうすぐ風林館高校を卒業する。あんなに暑苦しく、エネルギーの塊みたいな彼を思い起こさせるのは、なぜだかこういう、頼りなくて心細い音なのだ。彼の叫ぶ愛はいつも私の中になんの軌跡も残さない。忘れようと努力しているわけでは、もちろんない(忘れたくないのではなく、そういったことに労力を叩く気持ちが私のほうにサラサラないだけだ)。彼の愛の告白はいつも一方的に配達され、差し出し先は決して書かれていない。風鈴のようなか細いものが風にゆられた時にだけ音を鳴らすその様が、九能先輩にひどくよく似ている。私は風鈴の音が、特に嫌いでも好きでもない。けれどときどき、ひどく心を落ち着かせられる。 「九能先輩に会ってくる」  ぼそっと無意識に漏らしてから、ああ今のだけでは言葉足らずどころか失言になり兼ねないと気づいて、恐る恐る隣をみると、許嫁が不機嫌そうに眉をひそめて私をにらんだ。 「は?なんで九能なんかに」  彼は私の許婚である。複雑な関係性を、時間をかけてほどいてゆき、ようやく絡み合っていた糸が一本の線になったところがいまの私たちのいる場所だ。乱馬の気持ちはわからないけれど、少なくとも私は乱馬のことが大切だ。そして私は、彼に気持ちを配達できていないけれど、当然気づかないでほしいなどとは微塵も思っていない。 「最後に、話したいことがあって」 「話?なんだよ、それ」 「それは……言えないけど」  こういうとき、私はひどく口下手だ。おしゃべりは嫌いじゃないのに、自分の気持ちをうまく言葉に乗せることができない。  それならば余計なことはしなければいいだろうと、咎められればそれまでだけど、なんだかいまでなければならないような気がするのだ。 「なら九能と付き合えばいいだろうが」 「なんで、そういう話になるのよ。誰も好きだとは言ってないでしょう。少し用があるだけ」 「けっ、どうだか。べつに俺は、お前が誰と付き合おうが知ったことじゃねえけど」  売り言葉に買い言葉。今回のは私が確実に悪いのだけど、彼相手のときだけ、私はどうしてだか大人になりきれない。自覚しているのにできないのだからさらにたちが悪い。 「ああ、そう。まあ、私が誰と付き合おうとあんたには関係ないことだもの。当然よね」  後悔先立たず。乱馬が傷ついた顔をした。その顔に私の心臓がぎゅっと締めつけられる。 「勝手にしろ」  背を向ける乱馬を尻目に、私は家をでた。乱馬のことが好きだから、心を燻らせているものに、いい加減向かい合わなければならない。それで当の本人を傷つけては元も子もないのだけど。 **  土曜だというのに学校へと足が向いたのは、別に運命だからとかそういうのが理由ではない。ただ、彼も武闘家で、私もそうだから。そういう人間にはなんとなく、シャンとしなければならないときにだけ通じるものがある。  剣道道場の鍵は開いていた。そういえば、道場の中に入るのは初めてだなと、そんなことを思いながら靴を揃えて脱ぎ、靴下を脱いで中に詰め込んだ。半ば勢いで家を出てしまったため、ワンピースを着てきてしまったことにいまになって気づいた。この格好のまま道場に入るのは失礼にあたるかなと考えてから、ああ、私は剣道部の主将としての九能先輩のことは結構尊敬しているんだよなあと、まるで余計な発見をする。 「失礼します」  一礼して中に入ると、予想通り中に九能先輩の姿があった。先輩の他に人影ははい。いつから木刀を振っているのだろう。九能先輩の、綺麗についた筋肉の表面に汗の粒子がとめどなく溢れては流れる。風を切る木刀の音には余計な混じり気がない。その一本一本がただの素振りというにはあまりに凄みに溢れ、彼の剣の使い手としての実力をまざまざと表している。  刀を振る彼はこんなにも静かだ。空気までもが九能先輩を気遣うように沈黙している。端正な彼の横顔を、私はじっと見つめる。すっと伸びた鼻筋、面長な輪郭に凛々しい瞳。豊かな髪はいま、汗で振り乱れ、けれどおふざけのない凛として張り詰めた雰囲気が九能先輩の周りに流れていた。 「そんなふうに熱く見られてしまっては、集中できないよ」  素振りをやめた九能先輩が、私を見て柔らかく微笑んだ。正座しながら彼の素振りを見ていた私は息を飲み、それから小さく頭をさげた。 「すみません、邪魔してしまって」 「いや、嬉しいよ。天道あかねのほうから僕に会いに来てくれるなんて」  九能先輩は私の隣に畳まれたタオルを手に取り、ゆったりとした動作で汗を拭うと、私の隣に少し距離をとって座り、足をくずした。 「天道あかねも足を崩してかまわんよ。いまは僕と君しかいない」 「すみません、失礼します」  九能先輩相手に、妙に緊張していた。それは彼が、特に繕わないせいだと知っていた。ここには私たち二人しかいない。彼はいつもみたいに、道化になる必要がないのだ。 「どうやら、いい話ではなさそうだ」 「え?」  戸惑う私に、九能先輩は困ったように微笑んだ。 「僕は君のことが好きだから、そのくらいのことはわかるよ」 「……私のこと、好きなんですか?」  今度は九能先輩が驚いた顔をした。切れ長な瞳をわずかに見開き、薄い唇が開いた。けれど彼の動揺は、すぐさま彼の奥深いところへと消えた。 「なぜ、そう思うんだ?僕は結構、わかりやすく天道あかねに伝えてきただろう」  伝えられてきた。確かに、持ちきれないくらいの愛を、毎日届けてもらった。けれど振り返ると、いつだってそこに九能先輩の姿はないのだ。私の手元に残された愛には、いつだって持ち主がない。 「それならば、いま、先輩は私にキスできますか?」  九能先輩は、今度は戸惑わなかった。ただ沈黙し、じっと私を見つめた。 「好きだというのなら、私に、口付けられますか?」  私もじっと先輩をみた。九能先輩の腕が私のそばにまで伸び、指で顎を引き寄せられる。私も九能先輩も、目を瞑らなかった。瞑らずに、ただ、互いの目を見ていた。 「……こんなのは、天道あかねらしくないな」  九能先輩はふっと笑い、私から離れた。私も少しだけ笑った。 「確かに、私らしくないですね」  シンと静まり返った道場で、私たちは横並びに座った。開けっ放しの窓からは、ときどき心地よい風が春の柔らかな香りとともに道場の中に入り込む。  思えば九能先輩に出会ってから、二人で話をするようなことは一度もなかった。彼と私の間には必ずほかの誰かがいたのだ。 「勘違いしないでほしいのだが、僕は天道あかねのことが好きだ。そこだけは、たとえ君にも否定させない」  九能先輩は小さく息を吐き出して「僕が天道なびきにいくら支払ったと思っているんだ」と困ったように笑ってみせた。 「君には、いま好きな人がいるんだろう」  九能先輩が私に言った。 「早乙女乱馬か?」 「はい」  私は頷いた。 「私は、乱馬のことが好きです」 「今日はそれを言いに来てくれたのかい?」  九能先輩は落ち着いている。この人は元来が喜怒哀楽の読みづらい人だ。初めて闘ったときに、私は強くそのことを感じたはずだった。彼は自分にたくさんの色をつけて、私たちの目にもその濃淡の濃いところが鮮明に見えるように繕う。そのせいで私たちは九能先輩のことを簡単に見くびる。見くびって、本当はじっと目を凝らさなければならないところから、無意識に目を逸らさせられている。 「私、こんなに、告白をされたのは初めてでした」  私は九能先輩をみつめた。 「回数の話ではないのですが、それでも先輩が私のことを好きなら、先輩が卒業する前に、ちゃんとすべきだと思いました」 「僕は、君に返答を求めたことはないよ」 「知っています」  九能先輩がふっと解けるように笑った。彼は彼らしくなく、足を無遠慮に放り出し、とてもリラックスした様子で体育館の天井を仰いでから、横目に私をみた。 「君は勘がいい。そういうところも好きだったんだ」  九能先輩は言った。 「僕はね、常に背筋を伸ばさなければならない。足をこんな風に下品に崩してはいけないし、物をかきこんで食べてはいけない。九能家の長男として生まれるというのは、そういうことなんだ」  私は頷いた。 「僕は、大学を卒業したらおそらく結婚するだろう。九能家のために。君が僕のお嫁さんになってくれたら嬉しいけど、君は道場を継ぐべき人間だ。天道道場を守るために君がどれほど努力してきたのかは、誰でもない僕が知ってる」  天井を仰いでいた九能先輩は崩していた足を正しく戻し、私のほうに向き直った。 「君に恋をしている間、僕は普通の高校生でいられた。初めて、こんなに人を好きになったんだ。天道あかねを好きな僕自身のことも、好きになれた。君が入学してからの、この風林館高校での2年間は、僕にとっては何にも代えられないものだ。君の存在が、僕の重圧をゆっくりと取り払ってくれた」  九能先輩は微笑を浮かべて続けた。 「だから僕は君とは交際できない。僕には守らなければならないものがたくさんあるし、君にもあるから、君を傷つけるかもしれない可能性を、無責任に背負うことができないんだ。臆病者だと笑ってくれてもいい。天道あかね、君のことが好きだ。僕は君にたくさんの僕の愛を届けたかったんだ。君が幸せであることが僕の幸せだ」  熱っぽい眼差し、心のこもった言葉、けれど彼の表情はひどく穏やかだ。たった一つの年齢差を、この人に対して私はいつも感じていた。  九能先輩はふと顔をあげ、それからゆっくりと立ち上がって私に手を差し伸べた。普段ならば払いのけるはずの九能先輩の手を掴むと、ぐいっと引っ張られて立たされ、そのままぎゅっと優しく抱きしめられた。 「これは選別に頂戴していく。僕を当て馬にした罰だ」 「当て馬?」 「天道あかね。卒業なんて関係ない。大学でもまた君を待っている。まだ、僕たちの青春はこれからなのだから」  ゆっくりと体を離した九能先輩は目を細めて笑い、木刀を手にして私に背を向けると、もう私の姿などみえていないみたいにまた素振りを始めた。ブンッ、ブンッと木刀が鋭く空気を切り裂く音が一定のリズムで道場に響く。私はしばらくその後ろ姿をみてから小さく頭を下げ、道場を後にした。  靴を履いていると、影ができた。顔を上げると乱馬が、気まづそうな表情を浮かべて私を見つめていた。 「帰るぞ、あかね」  ぶっきらぼうに言い捨てる乱馬が、そっぽを向きながら差し伸べる手を、私はぎゅっと強く握りしめた。 **  風鈴は梅雨を前に取り外した。湿気で鈴が錆びてしまうのが嫌だったからだ。  桜が満開に咲き誇った4月、私たちは風林館高校の3年生になった。部活動にはますます熱が入り、私を追い回す朝の乱闘騒ぎの風習はすっかり廃れてなくなってた。 「天道あかね、僕と交際しよう!」  九能先輩は卒業してからもときどき高校に顔を出した。そして、相変わらず乱馬に勝負を挑んでいる。 「高校生活はどうだ、天道あかね」  九能先輩の目が、ときどき私に尋ねることがある。 「楽しいです」  だから私は答える。 「それはなにより」  九能先輩は、今日も私に愛を囁く。差し出し先のない愛が、今日もまた私に届けられる。私はだから、紙飛行機を折って晴れた空に飛ばす。私の幸せを静かに祈る、先輩の幸せを祈りながら。 「天道あかね、好きだ!」  どうか彼に青春の日々がありますようにと。  梅雨が明け、雨があがる。夏が近づく音がした。

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